昭和40年03月14日 夜の御理解



 福岡の安東さんがご主人の方です、御礼に出て見えましたから、十六日の総会の原鶴であります、チョットその事だろうとは思います、けれどもと言ってから、前置きしてから話されるんですね、お夢を頂きましたそれがその、原鶴ではありませんけれども、筋湯に行っておる所でございます。ほいであの長柄川の岸の所?通って、あの筋湯に行く事は楽しいのだろうっと、登って行きよった。
 ところが目の前に見えるのは、何と九重の九重ってとこありますね山の、九重の頂上が向こうの方にこう見えるんだそうですね、あらっこりゃいつの間に九重に登りよるちゃろうか、もう温泉行き温泉行きと思いよった。九重の登山も出来よる登山もまた楽しいと、言うてその登りよった、そしてその頂上を極めた時にはですね、富士山頂に到達しておったと言うお夢であったと言うんですね、そしてご来光を拝み、そして先頭に亡くなった母を、先頭に立ててお母さん、さああれがご来光よ拝ませて頂こうって。
 私それを聞かせて頂いて、本当に私感激して安東さんに母が何と言うたか、おかあさんあれが、富士山頂で拝むご来光だと、言うてそのご来光を拝んでおる。その中身です、私は思うです、神様は私共をおもうて下さる思いというものね、這えばたて、立てば歩めと言うのが親心じゃとこう仰る、ね。本当にようやくはいよると思うたら、もうたたしたいと言うのが親心である。
 さあタッチタッチして頂いての、コロコロたたしては、たたしてはそれが親心である。?ほらもう一人タッチタッチ出けるようになったと言うて親も喜ぶ、サアッこうやって手をたたいて喜び、ね、もうまんまんしゃんも食べれるようになるとです、手に持って行ってさあここまで来い、と言うてからおひぎんを手に持ちながら、ここまで歩けさあここまで歩けと言うて、親の膝にひざって行くわけ、ね。
 まあ子供に取っちゃ意地の悪い親に見えるだろうと思うですねそりゃ、そう言う風にして信心を、神様は躾て下さるんですけど、ね、それをそれと悟らんならいかんですね、ようやくたちならったばかりようやくゴソゴソとはいはいが出きるだけ、もう一日座ってから?ベッタチ動かんち言うなら、こげん親はじゅつない事はないですよ。私共そんな事ないだろうか、ね。チョット間違いがある時は、もう意気消沈する、ね、
 ??もう腹かいとる、本当そりゃ親の身になってみらんとお互いがねいっちょ、こう言う所わからして頂かにゃ確かに例えば今度の高橋さん今度の中には、温泉行きと?????温泉行きと言うが、総会を開くようになっとる。しかもその温泉の金は、会から出る?と言う話、みんながその会費出して温泉日に?言ったような事を、言ってるんですね。私はもう私はそう言うてますけどね、
 もう特別献納があってるんですから、少しぐらい私は会費廻そうと思いだけの事です。ですからとにかく今日の、安藤さんじゃないけども。今度自動車の一台も家族も皆んな連れてきたってよかですか、けどもそれが筋湯行きが九重行き九重に登らんような事になるかも知れんが…と、、そう言うような所からです、手なずけと言うとあまりに狡猾に聞こえますけどね、狡猾じゃないです。それが親心なんです。
 そう言う所からでもです、温泉に入った雑談の中からでもです、笑い話の中からでもです、信心を分らせてやろう、一人でも歩かせて頂く稽古させてやろうと言うのが、親心である事を悟らせて頂いて、私今度の総会でなからないかんと思うのです。そして次ぎは本当に九重の登山ぐらい出来る、九重登山っち思いよったら、登って登ってえらい九重には通り過ぎてと、思うような所を富士山頂まで登っとったと。
 そん時にはですね、もうあなただけの助かりじゃない、よる先祖の御霊までが助かってると言う事、ね、おかあさんの御霊先頭にです。それこそ??富士山頂のご来光を拝ませて頂くと言うような、おかげを頂かなそこを頂いてくれと言うのが神様の願いである事をです、知らなきゃいけませんです。私ももうチョットしたそういう意味合いでですね、まあしっかり???今度五十幾日間の間ですね、あの私申しましたように。
 なんとはなしに椛目の上に、真っ黒い雲が多い被さっておるような、と言う感じを頂いてしようがない。起きて来る事私の思う事と一致して来るんです。ずうっともうそれこそ本当にヒヤッートヒヤヒヤする事ばかり起こっているのです。総代さんの上にばかり、高芝さんでしょう、高山さんでしょう堤さんでしょう、もう以下先生方始め皆んな例えば椛目全滅て言うほど、総代以下風邪を引いて、しかも皆んなががひどいんです。
 成る程黒い雲が多い被さっておる様なとこを?思わして頂いて、本当に詫びる所は詫びさせて貰い、今まで整理ついていなかった所は、整理つけさせて貰うて、改まらせて貰い、お詫びもさせてもろうてのここ十九日間だったんです。そう言うような夕べ?の言うなら、薄氷の上に立っているような、気持ちだったんですね。それが今日あの原さん所のあのあつこさん達、婿になるのが、迎えに来てるんです赤ちゃんが出来てるんです、火晴れになってからでしょう。
 それが丁度十日の日が日晴れの日だったけれども、私は午後から休みましたもんですから、せっかくの幸太郎君私も本当に逃げて行きたい???。私がぐっすり休んでいるもんですから、久保山先生にお取次ぎを頂いてから帰ってるんです、そうして原さんが見えてから今日帰りますち、言いますもんですから、あこりゃ等々会われんなーと思いよったら、お婿さん達がやってきたんです。
 私がその事を言うんです。よう参ってくれたね??私が風邪をひいてるけんで??こんとじゃろと思うて?おかげ頂いてよかったね、って言うてもあの方信心が薄いでしょうが、だから本当風邪でも移しちゃならん、私たちもこれでお育てじゃなかろうばってん、まあ覆面でもしたらちった安心しようと思うてから、私は覆面してから抱っこした、そしてから御神前にいつものように私が御祈念させて頂いたんですよ。
 丁度椛目のこう言うような、真っ黒い雲が多い被さっている時に、しかも神様私に覆面をしてから、神様この子を供えねばならないような事でも、真に相すまん事でございます。と言うてから御挨拶申しあげさせてもらいよったらですね、あの昔は寺子屋なんかに、この手習いの稽古をいたしますと、もうここの内容に書いたんですね、真っ黒になる程に字の稽古したんですね。
 もう字じゃなんや分からん、その上に書くわけなんですね、もう白かとこがないほどに、今頃はあんな事はいたしませんけど、私共が小学校時分までは、白い紙に真っ黒になるまで書いていました。その練習のほこ紙を頂くんですね、今まで真っ黒い雲が真っ黒い雲が、と言うて来たけれども、実はこう言う事であったと言う事を教えて頂くんです。この子はこう言う真っ黒い雲の多い被っとる中に、日晴れ日の晴れた、お参りをさせて頂いてからこの子は?思いよるけども、そうじゃないのだ。
 丁度一生懸命その道を稽古させて頂いて、こんなにも真っ黒なる程稽古したと言う事。さあこれからが、また新しい稽古が出来る時に、こりゃ丁度お礼参りが出来たんだと言うて下さるんです。これなんかも本当に椛目全体を、這えば立て、立てば歩め私までも神様そう言う風にしてから、この?分かるでしょうが、だから始めから分かっとたら私ああ言う実感は、皆さんにも聞いて貰えないし、自分も思えなかった。改まりも出来なかった。もう神様何処にも此処にも引っ掛けてあると言う事が分かる。
 で今日夫婦共喜んで帰ったんですけども、そう言う事になるから、確かにこの神様はですね、もうひと所に足踏みをさせて置きたいと言う事を非常に、お嫌いになると言うか、嘆いておられると、ね。もうこんやつばっかりはいくら言うて聞かせたっちゃ分からん、と思いながらもやっぱりさあまいっぺん立ってみんか、やっぱりさあ参って立ってみんか、参って私の言う通りしてみんか、と言うようなです、働きが必ずあると言う事、それにどうでしょう尻餅ついて動かなかったら、ね。
 それにどうでしょうか腹かいて動かなかったら、心がこう引っ込みそうじゃった、先生仰る通りだったそれどこじゃなかった、と心がグイグイと有り難い方へ変わって飛躍して行ってこそ、私は親の喜びじゃなかろうかと思うのです。私共の信心が極まる事なく、留まる事なく、ね。進ませて頂こうと言う願いを持たなければならない、もうこれでよかっ、と言うちゃでけん、いくら腰あげとっても、神様はやはり親じゃからそれではあまりにも、可哀想だぜ引きあげてでも引き立ててでもです、ね、
 場合には叩いてででも、怒ってでもです、ね、さあここにき歩いてみらんかと、と言うてそう言う手を取らんばかりにです、働きを見せて下さるのですから、ね、例えばここ十九日間私そこん所をようついてから少し歩きなろうたわけです。ね。よう歩きらんやったとこを歩いた訳です。だから神様が言うてもよかろうと教えて下さったようなものです。ここをひとつ神様の思いの中はいつも。
 這えば立て立てば歩め、もう私はこれが出来てるけんで、こげな事は出来んてんなんてんち、思いはサラサライッチョ捨ててですね、ね、私に出来る事ならばです、出きるだけの力を頂かせて下さいと願わないかんです。私しゃお金ば御用が出けとるけんで、イザと言う時にゃお金さえお供えすりゃ、私の御用はもうこと足りたと言う思いをしよる、私しゃもう体だけ他の御用はでけとるけんで、他の御用は他のもんにまかせてと言わずに、それをせろじゃない、出来る力を頂けと言う事、神様もそれを願うとられるもんですね。
   おかげを頂きました。